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鉄路の男

「ポーランド映画、昨日と今日」と題された特集上映が京橋の東京国立近代美術館フィルムセンター小ホールでおこなわれていて、アンジェイ・ムンク監督作品『鉄路の男』(1956年/白黒/80分)を観にいった。仕事を終わらせて、上映開始時刻ぎりぎりに駆けつけたときには場内はほぼ満席。満席だと入場できないことになっているので危ないところ。

映画の内容は、老機関士オジェホフスキが夜行列車に身を投げて亡くなった事故の調査で、関係者がさまざまな証言をおこなうのにしたがい、故人の人物像が明らかになっていくというもの。芥川龍之介の『羅生門』のような構造のストーリーだが、実際に黒澤明が映画化した『羅生門』からインスピレーションを得て作られたらしい。

オジェホフスキはものすごく頑固な性格で、年功序列など古い価値観にとらわれた人間である。チラシの解説には「高潔な人間性」と書かれているので、最初のうちは嫌な人間であるように描いておいて、次第に良いところが見えてくるようになっているのかと思っていたら、いろいろなエピソードが語られるほどにますます感じ悪いところが浮き彫りになっていくので、その点はむしろ意表をつかれてしまった。若い運転士に対してこれはあんまりだと思うような非常につらい仕打ちを仕向けるだけではなく、上層部からの命令にも従わない。非常に嫌な困ったやつだなという印象はぬぐいようがないのだけれど、そこはこの映画が隣国ソ連のスターリン死後3年足らずで作られていることを考慮に入れる必要がある。

受付で配布されたプリントによると、「フルシチョフのスターリン批判(2月)とハンガリー事件(10-11月)に挟まれた56年9月に完成したこの作品は、労働現場の意向を無視した生産合理化運動や空疎なスローガン連呼を暴いた、世界で最も早いスターリン主義批判映画である。」と書いてある。それにしても、このオジェホフスキの頑固さはあんまりだと思うが、周りに迎合することなく自分の信念をしっかり持ち、それにしたがって生きていく在りかたは確かに高潔だと言うことができる。当時のポーランドにおける映画の製作スピードがどんなものだったかはわからないけれど、フルシチョフのスターリン批判以前から準備して制作をはじめていたのだとして、相当思い切った内容の映画であることは言うまでもない。

オジェホフスキは本当に頑固で嫌なやつすぎて、わたしとしては解説の内容がいまいちぴんとこない点もなくはないのだけれど、ソビエト映画回顧展やチェコ映画祭で旧共産主義国についてあれこれ考えることが多い昨今、また非常に興味深い映画に出会うことができて有意義だった。

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cinnabom

「P-ブロッによる雑音楽」の後は下北沢へ。ラ・カーニャでcinnabom[ちなぼん]のライヴを観た。cinnabomこと正山さんは学生時代からの友人。sugar plantというユニットのヴォーカル/ベースで長く活動しているが、ここ数年はソロでギターの弾き語りをするcinnabomの活動が中心になっている。1人で弾き語りをするcinnabomは今年の3月に観ているけれど、この日のライヴはバンド編成でおこなうとのこと。メンバーは、cinnabom(ギター/ヴォーカル)の他、伊藤ゴロー(ギター)、山上一美(フルート/サックス)、塚本真一(ピアノ)、一本茂樹(ウッドベース)、伊藤葉子(ドラム)の6人。

前半は「永遠の星」「as your girl」「かなた」「海へ」「dryfruite」と、いずれもアルバム収録曲を演奏。バンド編成の演奏で、より大人っぽくムーディな雰囲気。特にフルートとサックスによる流麗なメロディが心地よい。伊藤ゴローのギターは、正山さんのボサノバギターの師匠ということで楽しみにしていたが、あくまで正山さんを立てるように演奏していていて、かなり控えめに感じられた。一方、正山さんは、バンド編成でやれる心強さなのか、一人で弾き語りしているときよりは楽に弾いていたような気がする。全体としては、どちらかのギターがもっと聴こえるようにしたほうが良かったように思う。

演奏の合間のMCは、正山さんが昔ラ・カーニャでアルバイトをしていたという話から、詳しい曲紹介までいろいろ。いつもギターを練習しに出かけていた「庭」と呼んでいる場所が近所にあって、「かなた」はそこに生えている木のために作った曲なのだとか。「海へ」は前のライヴのときもとても印象的だった素敵な曲。「dryfruite」はもともとsugar plant名義で発表された曲(dryfruiteというアルバムがある)。「ドライフルーツは、みずみずしさはないけれど栄養価は高くてぎっしりと中身が詰まっている、自分自身もそうでありたいと思っている」というようなMCをすると、「そういう曲だったんだ」という突込みが他のメンバーから入り、「そうなんですよ」というような受け答えがあって演奏がはじまった。sugar plantのときからそう思って唄っていたとしても、歳を重ねるとともにその意味は深まっていく。同い歳の正山さんがそのように思いながら詩をつくったりしているんだなぁと感慨深い思いで耳を傾けた。

後半はまずポルトガルの曲のカヴァーを3曲、そして「夏よ来い」「おやすみ」。カヴァーの曲でも、詩の内容を紹介したりして、詩人でもある正山さんならではのMCをたくさん聴くことができた。正山さんの詩は、もちろん現代詩であることは踏まえていると思うけれど、難解なレトリックを駆使するようなものではなくて、ストレートで素直な感情や思いを綴ったエッセイのようでもある。その真摯さは学生時代から全然変わるところがない。歳を重ねていろいろな経験をするごとに、正山さんの詩や詩に対する思いはどんどん深くなっていっているのだと思う。

後半では伊藤ゴローの華麗なギターソロを聴くことができる場面もあった。また、最後の「おやすみ」では正山さんが慎重に爪弾くアルペジオが印象的だった。確かこれは一人で演奏したんだったかな? (ちゃんと覚えて書いているのかって突っ込みが入りそうだけれど、blogをアップするのはずいぶん遅くなったが、ライヴのあとにほとんど殴り書きの下書きでそう書いていたのだ)。そのあとに確かアンコールを1曲やってライヴは終了。今までなかったバンド編成でのライヴということで、用意していた曲を出し尽くした様子。ライヴ終了後、ちらっと正山さんとお話し。ワンマン・ライヴだったから、たっぷりというには時間的にちょっともの足りない感じがしたのも事実だけれど、心のこもった唄の数々にバンド編成での演奏、MCともに大満足のライヴだった。

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P-ブロッによる雑音楽

衆議院選挙の投票をすませてから、用賀の世田谷美術館に「P-ブロッによる雑音楽」を観に行った。P-ブロッは野村誠率いる鍵盤ハーモニカ奏者5人による楽団。雑学、雑貨、雑種、雑魚など、「雑」がつくものは面白いけれど「雑曲(ざっきょく)」というのは聴いたことがないのでつくってみよう、ということで実現した企画だそうである。受付で配布されたパンフレットは、文字が斜めに印刷されていたりして、それもなんとなく雑っぽい雰囲気を出すためとのこと。

演奏は企画展示室に入場する廊下をつっきったところの、外光が入る扇形の展示室でおこなわれた。このときの世田谷美術館はちょうど展覧会の合間で、展示室は何も展示されていないがらーんとした空間。白い壁には前の企画展の展示跡と思われる目印のような薄い線や文字が残っている。

この展示室は高い天井にやたら音が反響して、もわもわっとした音になってしまう。今までPブロッあるいは野村誠の鍵盤ハーモニカの演奏を、ライヴハウス、路上、音楽ホール、お寺などいろいろなところで聴いてきたけれど、こんなに音が反響するのははじめて。細かいニュアンスがそがれてしまう点はいまいちだけれど、またいつもとは違った音に聴こえてちょっと新鮮。

第1部は「P-ブロッ雑プログラム」ということで、P-ブロッが過去に演奏してきた曲を集めたプログラム。ここ2-3年の曲が多かったけれど、1996年のP-ブロッ結成初ライヴで演奏したという平石博一の曲もあった。この結成初ライヴのときは、「江村夏樹、しばてつ、Michael Parsons、大友良英、Taske、脇坂明史、河合拓始、平石博一、野村誠と9人の作曲家がP-ブロッのために新曲を書いた」とのこと。まったく知らない作曲家も混ざっているけれど、このジャンルレスというか、幅の広さはすごい。第1部のあと少し休憩。

第2部は「雑談と雑曲」ということなのだけれど、野村誠は、いかにも雑にとりとめもない話をしようとしつつ、「ここは音が反響しすぎて、はっきり話さないと会話が成立しないですね」。林加奈は客席を動き回って、観客に話し掛けたり、手を叩いたり、足を踏み鳴らしたり。それにしてもパンと手を叩くだけで本当に良く響く。最前列で鍵盤ハーモニカ持参で来ている子供がいて、「今日はセッションとかはしないから弾くなら今しかチャンスがないよ」と話しかけられたりしていて、休憩の延長のようなダラダラとした時間だった。そのようなわけで、第2部はもしかしたらもっと充実したものになる予定だったのかもしれないが、ほどなく10分弱で終了。

第3部は今回初披露の新曲を集めたプログラム。最初は鈴木潤雑曲「P-ブロッメンバー紹介」。単なるソロ回しになりそうでならないところがP-ブロッならでは。

野村誠雑曲「鍵ハモのための雑曲集」では、短い曲を10曲。「黒鍵カタカタ」「上昇と下降」「指づかい」「トリルと和音」「5声転調」「好きな順に」「ポンコツセッション」「どだけ・どれだけ」「マッサージ演奏」「10音のホケット」というタイトルがつけられている。ちなみに「どだけ・どれだけ」というのは、ドレミファソラシドのドだけ、ドとレだけ組み合わせたパートで構成される曲。「マッサージ演奏」では鍵盤ハーモニカをマッサージするように体にこすりつけて音を出す。とてもシンプルなコンセプトだけれど、一曲一曲おもしろかったし、全体では鍵盤ハーモニカで出すことができるいろいろな音を味わうことができておもしろかった。

林加奈の「ザ☆曲」は、演奏&叫びの力技(?)。でもあっというまに終わってしまってあまり印象が残っていない。

しばてつ雑曲「5chサラウンド・サウンド~ハイドン変奏曲」は、5chサラウンドということで、5人のメンバーが客席を取り囲んで演奏。曲は有名な賛美歌。「テーマ」「くり返し」「速くなる」「五奏法」「♪増加」「バイオリン的soloとのばし」「のばし」「ラベル風ハイドン」「カノン」「コール&レスポンス」「3音転調」「5声部」「マイナーハイドン」「コーダ」というパートごとにいろいろな奏法を駆使して演奏。パートごとのタイトルを見ながら、ふむふむなるほど、と思って聴いていたけれど、その境目がわからなかったところもあった。各々が弾いている内容はかなりシンプルなのだけれど、音を出す順番はもちろん、音をどこまでのばすかなど厳密に決まっている様子。メンバーみな非常に慎重に演奏をしていて、あまり「雑」ではなかったかもしれないけれど、試みそのものは非常に楽しめた。

吉森信雑曲「壁のむこう」は、鍵盤ハーモニカのホースをはずし、そのホースの息の噴出し側をもともと差し込んであったところに向けて片手で持ち、息が少ししか楽器に入らない状態で演奏。これはとても新鮮だった。この思いつき自体も新しいけれど、出てくるかすれた音もすごく変わっていておもしろい。

第3部終了後は美術館前広場で「犬のための音楽会」の予定だったのだけれど、あいにく外は雨。世田谷美術館がある砧公園には犬の散歩をする人が多く訪れるそうで、犬のために演奏をしようという企画だったのだけれど、雨のせいで人も犬もいない。一応エントランスの屋根のあるところに何人かの客やP-ブロッのメンバーが溜まって、外の様子を見ていたのだけれど、そうしたらなんと雨の中犬の散歩をする人が通りかかった。林加奈と鈴木潤が果敢にも雨の中出て行って演奏。でも、「かえって怖がられたみたい」と言って戻ってきた。外の雨足は相当強い。そんな具合で30分ほどだらだらと雑な感じで過ごして演奏会は終了。

ところで企画展をやっていないときの美術館を訪れたことってほとんど記憶にないのだけれど、常設展やミュージアム・ショップなどは開いていた。利用者は、いないことはないのだろうけれど、少なくともショップに2人もスタッフがいるのは無意味な気が。公立美術館に対する予算が削られて苦しいという話をよく聞くし、個人的にはその事態を憂慮しているのだけれど(昔よりおもしろい展覧会が少ないと感じるのは事実)、予算が少ないなら少ないなりにやれることはまだいくらでもあるのではないの? と思った。

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宍戸幸司

午前中から千石の三百人劇場でおこなわれているソビエト映画回顧展へ。

一本目の『猟人日記-狼-』(1977年)はツルゲーネフの原作をロマン・バラヤン監督が映画化。少ない言葉数で自然描写を際立たせた美しい作品。険しい嵐の夜と緑豊かな昼間の風景とのコントラストがとても印象的。

二本目『カラマーゾフの兄弟』(1968年)は、イワン・プィリエフ監督がドストイェフスキーの原作を映画化した3時間44分にも及ぶ大作である。原作のどろどろとした人間の狂気やだらしなさ、また一方では高邁な精神をあますことなく表現する役者の迫真のこもった演技、そして手抜かりのない格調高い演出。途中で1回休憩をはさむ3時間40分という長さがまるで苦にならなかった。

それから徒歩30分強歩いて、「チェコのマッチラベル展」が開催されている根津のカフェNOMADへ。ちょうどテーブルが一つだけ空いているというタイミングで入ることができて幸い。展示はテーブルなどがつけられていない一箇所の壁にまとめられているので、他の客をはばかることなくじっくりと観ることができる。しかし逆に言えば、席にもよるけれど座ってお茶を飲みながら展示された作品を楽しむという状況ではないのがなんとも残念。壁に貼られているマッチラベルは展示のごく一部で、あとはクリアファイルにはさまれているのをめくって観るようになっていた。

「チェコのマッチラベル展」は今年の2月に渋谷のパルコブックセンターにあるギャラリー、デルフォニックスでもおこなわれていたのだけれど、その時は展示即売会状態で、シートで売っているものやバラで売っている1枚1枚のマッチラベルまで、雑多なデザインのマッチラベルを直接手にとって楽しめるのがよかった。今回の展示は厳選されてちゃんとシートになっているものだけを扱っているので、だいぶ印象は違った。

それから都バスで早稲田まで移動。時間はけっこうかかるが、いい具合に1本で行くことができるのである。そして西早稲田のジェリージェフへ。割礼の宍戸幸司のソロライヴ他を観にいった。

たどりついたときは1番目のチハヤトシバタの演奏中。混んでいる様子だがとりあえず中に入ると、店の奥まったところに1つだけ席が空いていて座ることができた。チハヤトシバタは、ふくろの千早聡(ヴォーカル/ギター)とDoodlesやINISIEの柴田奈緒(ドラムス)のデュオだと思っていたのだけれど、みみのことやINISIEの竹内宏明(ベース)が加わって3人編成だった。千早聡を観るのははじめて。お店に入ったときは激しい轟音でギターをかき鳴らしていたけれど、その後唄モノの曲もやっていた。

2番目はDoodlesの寺島暁子(ヴォーカル/ギター)とChe-SHIZUや元みみのことの西村卓也(ヴォーカル/ベース)のデュオ。1年少し前、西村卓也がみみのことを脱退して以来、このデュオでのライヴは度々おこなわれている。このユニットでは西村卓也もヴォーカルをとるらしく、いったいどんな感じなのだろうと気にしていたのだけれど、タイミングが悪くてなかなか観る機会がなかった。結局、西村卓也のヴォーカルは、今年3月の工藤冬里+西村卓也+高橋朝のユニットでほんの少しだけ聴くことができたのだけれども。

このデュオでは、曲によって寺島暁子がヴォーカルだったり、西村卓也がヴォーカルだったり、1番と2番でチェンジしたり、ツインヴォーカルだったり。寺島暁子が弾き語りをするバックで西村卓也がベースを弾くという形式ならあまりにも分かりやすく、容易に想像がつく音楽になったと思うけれど、あくまで二人とも半々という感じでやっているのがなんとも言えない雰囲気で、独特の味わいを生み出していた。最後はなんとギターとベースをチェンジして、西村卓也ヴォーカルでPink FloydのFat Old Sunを演奏。

最後は宍戸幸司(ヴォーカル/ギター)ソロ。割礼のライヴには良く行っているけれど、宍戸幸司ソロを観るのは3年ぶり。これまで何度か観た宍戸幸司のソロは、基本的には割礼の曲をそのまま一人でやっているような印象。割礼はなんといっても宍戸幸司そのもののバンドだから、それが自然だと思う。この日のライヴは、場所の雰囲気もあるかもしれないけれど、あまり歪ませないクリアな音で、ゆったりとしたアルペジオやコードで演奏していた。それでも割礼のときと印象はそんなに変わらない。やはりスタイルが確立しているというかなんというか。でも一音音を出しただけで圧倒的な存在感。

この日は「ルシファーの悲しみ」や「揺れつづける」など、割礼では最近あまり演奏されていない曲も演奏されて嬉しかった。そして詩の朗読も。「髪の長い人に後ろから声をかけたら男の人だった」というようなすっとぼけた内容で、どっぷりとはまった世界からふっと突き放されるような感覚。それに続いてすぐ演奏したのが「崖っぷちのモーテル」。一番最後は歪んだ音で何か曲を弾きはじめるかと思いきや、途中で弾くのをやめちゃったような感じの曲。ソロの場合はバンドでやるときよりもラフに、音作りもそのときの気分で変えたりしながらやっているのかもしれない。

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Alaya Vijana

恵比寿の東京都写真美術館でおこなわれているチェコ映画祭2005で、イジー・メンツェル監督作品『厳重に監視された列車』(1966年/白黒/92分)を観た。性に悩む青年を主人公にしたコメディ・タッチの作品だが、ナチスドイツ占領時代の小さな村を舞台に当時の社会や人々の生活感をしっかりと見せる硬派な社会派映画でもある。

目黒まで歩いて都営三田線で千石へ。三百人劇場のソビエト映画回顧展で『7月6日』と『十月のレーニン』を観た。劇場入り口で本間さんにばったり。ちょっと疲れ気味の様子だったけれどそれはまぁお互いさま。

『7月6日』はユーリー・カラーシク監督による1968年の作品。1918年7月6日、共産党一党独裁の契機となった第5回ロシアソビエト大会の歴史的な1日を描いた実録映画である。海外との関係など穏健に政策を進めていこうとするレーニンと、革命の理念をあくまでも貫こうとする極左共産党員との緊張感あふれる対立が白黒のスタイリッシュな映像で描かれている。実録ものといっても基本的に共産党の息がかかった時代の映画であり、内容をそのまま鵜呑みにするわけにはいかないが、レーニンは追い詰められた状況の中でも余裕のある落ち着いた風情で、側近の部下や軍部からも厚い信望を得ている様子。

『十月のレーニン』はミハイル・ロンムによる1937年の映画だが、1917年の十月革命を指揮するレーニンを描いた作品。正体を隠して部下の家に泊まり、革命前の緊張感でピリピリした雰囲気の中、周囲の人に気を使わせないように陽気にふるまうなど、レーニンの人間像にぐっと焦点を当てた内容になっている。もちろんそれも共産党によるバイアスがかかったものだと言うことができるのだが。

前日にも三百人劇場で、1965年のセルゲイ・ユトケーヴィッチ監督作品『ポーランドのレーニン』を観ている。これは労働者階級解放争でシベリア流刑にあった後、亡命してヨーロッパの各地を転々としていたレーニンの若かりし頃を描いた作品。レーニン役の一人称による日々の出来事や考えたことなどのナレーションを中心とした進行で、第三者からの視点はほぼ存在しない、まさにレーニン万歳といった感じのプロパガンダ映画である。なにしろ連行されて入れられた独房で床の拭き掃除などをしたり、身の回りの世話で雇っている若い娘を連れて山歩きに出かけたり、指導者でありながら偉ぶったところが全くない、非常に気さくで人情豊かな様子が描かれている。ソ連崩壊後10年以上も経った今となっては、ありえないタイプの作品なのだけれど、それだけに映画の鑑賞体験としてはあまりにも貴重で新鮮。

これらはレーニン集中講座ということで特別上映された、なかなか観る機会のない作品。『7月6日』と『十月のレーニン』のあと、この日一番最後の枠はジガ・ヴェルトフの『レーニンの三つの歌』(1934年/白黒/60分)。本間さんはこれも観ていくそうだけれど、わたしはライヴに行くのでそこでお別れして、都バスで浅草へ。アサヒアートスクエア(アサヒスーパードライホール4F)にSitaar Tah!とAlaya Vijanaのライヴを観に行った。

予想してはいたことだけれど、バスは思いのほか時間がかかって、会場にたどり着いたときには開演予定時刻を30分近く過ぎてしまった。とりあえず中に入ると、段差のないだだっぴろい場内で、客はほとんど地べたに座っている。かなり広い空間だが、ほどよく埋まっていて前のほうに行けそうにないので、最初はとりあえず後ろのほうで立って観ていた。

先に出演したのがSitaar Tah!。これはヨシダダイキチ他約20名のシタール奏者によるグループ。先日長沢哲さんどのデュオで観たヴォイス・パフォーマーの山崎阿弥さんも出演。よく反響する会場で、音はもわもわーっとなっていて、あまり山崎阿弥さんのヴォイスがわからない。最初、歌っている人が複数人いるのかな、と思ったりもしたけれど、どんなに目をこらして見ても歌っているのは山崎阿弥さんだけの様子。シタールは、たぶんこの日のライヴでは19名。おそらくヨシダダイキチがワークショップなどで教えている人たちが集まっているのだと思うけれど、これだけいると数の威力という感じで、個々のプレイヤーの演奏を楽しむような状態ではない。ただ雰囲気に身をゆだねていればOKという感じのまったりとした演奏だったが、そう思ってぼーっと聴いていたら、だんだん演奏のテンポが速くなって盛り上がっていった。ヨシダダイキチがソロのような感じで目立つフレーズを弾いたりもしてどんどんテンションがあがっていったところで演奏終了。

楽屋に帰ろうとする山崎阿弥さんを捕まえて挨拶。開演はかなり押していたそうなので、そんなに大幅には遅刻しないで済んだみたい。「声、あまり良く聴こえなかった」とお話ししたら、山崎さん自身も音がまわってしまって自分の声がどんなふうに出ていたのか良くわからなかった様子。やや消化不良な感じだったかもしれない。

次のAlaya Vijanaとの間で、人の動きがあったので、さーっと前のほうに行き、演奏者のすぐ前の場所を確保。片付けを終えて出てきた山崎阿弥さんも場所を探していて、ちょうど隣があいていたので並んでほとんどかぶりつきの位置で観た。Alaya Vijanaのメンバーは、ヨシダダイキチ(シタール)、山川冬樹(ホーメイ/イギル)、瀬川U-K-O(タブラ)、立岩潤三(パーカッション)、藤乃屋舞(ベース)、永吉真弓(マリンバ)、岡山守治(口琴/ホーメイ/ギター)。ヨシダダイキチ、瀬川U-K-Oは国内でそれぞれの楽器の第一人者と言ってよい名の知られた演奏者だし、その他のメンバーも個人的に要注目の人が揃っていて、まさにスーパーグループと言ってよい布陣。これは期待が高まらないわけがない。

演奏内容は、文句のつけようがなかった。民族楽器主体のグループでリズムなどかなり複雑なアンサンブルだけれども、全体で向かってくるような演奏のテンションの高みがある。もちろん各々の演奏テクニックのすばらしさも魅力的。もとから大ファンである、山川冬樹の電気式人工喉頭を喉に当てて震わせながらのホーメイ(MCもその状態でやっていた)はサイバーな雰囲気さえ漂わせていて最高。立岩潤三は、良くライヴを観ているポチャカイテ・マルコやGhostでは案外ロックな力強いドラミングを聴かせるけれど、Alaya Vijanaでは主に民俗楽器のパーカッションを使用。でも曲の盛り上がりに応じてシンバルを鳴らすなど、随所で激しいノリで盛り上げる。藤乃屋舞ははじめて観た。透明な小ぶりのアクリルボディのベースを使用。ブイブイとダイナミックな運指で演奏する様子がカッコいい。この民俗楽器編成の中でエレクトリック・ベースを全然違和感なく弾いているのもすごいけれど、むしろ他のメンバーのノリが意外と直情的にわかりやすくロックっぽかった、ということが言えるかもしれない。とにかくメンバー全員がカッコ良くて、小難しいことをちまちまとやる民俗音楽ユニットという雰囲気は一切なく、ロックバンドっぽいテンションの高さがあるところが気に入った(小難しい音楽も好きだけれど)。

アンコールは岡山守治の口琴ソロ。多方面で活躍するメンバーの集まりだから、全員で演奏できるアンコールの曲は用意されていなかったのだろうけれど、口琴だけのソロでこれほどまで聴かせてしまう岡山守治は本当にすごい。今まで倍音Sやその他のユニットで何度も岡山守治の口琴を聴いてきたけれど、この日のライヴでは随分たくさんのお客さんの前でのソロ。周りから驚愕して集中して聴き入っている雰囲気が漂ってきて、非常に華々しいアンコールだった。

物販コーナーでは、出演者のCD以外にも口琴やシンギング・ボウルなどを売っていた。すごく大きなシンギング・ボウルがあって、買おうとは思っていないながらも鳴らしてみて満足感にひたる。口琴はすでに3つ持っているけど、インド口琴も1つくらい欲しいなと思って、ついつい購入。鳴らしながら歩きたい欲求を押さえつつ帰途についた。

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D/J Brand

恵比寿の東京都写真美術館で開催中のチェコ映画祭2005へ。ミシェル・フォルマン監督作品『ブロンドの恋』(1965年/モノクロ/85分)、『消防士の舞踏会』(1967年/カラー/72分)を観た。監督は60年代当時ジャンヌ・モローやフランソワ・トリュフォーとの交流もあり、『ブロンドの恋』はチェコ・ヌーヴェル・ヴァーグの代表作と呼ばれたらしい。ヒロインであるアンドュラのおっとりとしたかわいらしさ、そして彼女が遠路はるばる押しかけていくミルダの両親の飾り気のない態度や喋りっぷりが印象的。『消防士の舞踏会』はコミカルで下世話なドタバタ劇。監督はのちに米国に移住して日本でも公開された『アマデウス』を作るのだが、その片鱗はこの作品の中にすでにかなり大きく現れていると言えそうだ。

それから山手線で鶯谷まで行き、東京藝術大学でおこなわれている2つの展覧会を観た。一つは陳列館でおこなわれている「Rosa!」~あらわになる色。「淡紅色(rose)」(あるいはそれに近い色)が使われた作品を集めた展覧会。会場に入ってすぐの1Fは、部屋の照明が落とされて主に映像を使った作品が集められている。しかし同じ展示室内にこじんまりとした作品がたくさんあって、あまりじっくりと観る気がおこらない。2Fの展示室に上がる階段の壁には小さい写真のプリントがごちゃごちゃと貼られている。こういうのも、いまさら全然新鮮味が感じられない。

2Fの展示室は、パーティションのないだだっ広い部屋に天井からの間接的な自然光が差し込む明るい空間。色で統一している展覧会だから、こんなふうにたくさんの作品が一気に視界に入るような展示スタイルも効果的と言うことができるのかもしれない。ただ、やはりごちゃごちゃとしていてやたら作品点数が多いものだから、1つ1つの作品の印象は薄くならざるをえない。そのような中、笠原恵実子による子宮孔を撮影した作品は、立派に製本されたその制作のドキュメントが読めるようになっていて興味深かった。あと、チェコのDavid Cernyによるピンク一色に塗られたソ連の戦車(どうやら歴史的に街中に存在しているモニュメントかなにかの様子だけれどよくわからない)の写真は興味をそそられた。

もう1つの展覧会は大学美術館でおこなわれている「D/J Brand(ディージェイ ブランド)」~ドイツに学んだアーティストの発火点。このタイトルの "D/J" とはドイツと日本のことを表していて、ドイツで学んだり活動したりしている(またはそのような経験のある)アーティスト、また日本で活躍しているドイツ人アーティストを集めた展覧会である。作風はアーティストによってまちまち。でもこちらの展覧会はパーティションをうまく使っていて、ちゃんとそれぞれの作品に向き合って鑑賞しやすいような展示になっている。展覧会そのもののコンセプトなんてどうでも良いというわけではないのだけれど、個人的にはこういう一つ一つの作品が大事にされている展覧会のほうが好感度が高い。ちゃんと美術館として設計された建物だし、使用している空間も思いっきり広いから、陳列館の「Rosa!」と比べてしまうのもなんだけれども。

「D/J Brand」は作家によるステートメントが貼り出されているのも良かった。それは作品の説明のようなものであったり、単にドイツの思い出のようなものであったり、自身の活動を紹介するものであったり、作家によって書いている内容はさまざまなのだけれども、そういった文章を書く切り口みたいなものも、作品鑑賞の手助けになると思う。作品について言葉で説明したくないというタイプの作家ならば、そういうふうに書けばよいのだから。特にはじめて作品に出会う作家の場合、こういうのがあるのとないのとでは全然観る側の姿勢も違ってくる。

特に印象的だったのは増山裕之の作品。ドイツから日本までの飛行機の窓から2分ごとにインターバル撮影した写真を編集したという、横に細長ーいライトボックスの作品。膨大な量の写真から厳選して、それでも千枚以上使っているというのがすごい。とても美しくて視覚的なインパクトのある作品。同じ展示室にあった田中奈緒子による製図台に投影されたアニメーション作品は非常に丁寧に作られていて、15分ぐらいの映像を思わず2回観てしまうほど惹きつけられた。O JUNの人柄がにじみ出ているような感覚的にぐっとくる作風、そしてステートメントがおもしろい。病室の写真がよく見ると二重露光になっている斎藤美奈子の写真は、内省的で落ち着いた自身の個性に忠実でありながら社会にコミットしていこうとする姿勢が感じられる。また、この展覧会の企画者でもある渡辺好明の蝋燭を使った作品も、パーティションの縁を使った展示方法が効果的で良かった。

3Fの展示室から地下におりるエレベーターホールで、美術ジャーナリストの小倉正史さんに遭遇。お会いするのは水戸芸術館のアーキグラム展の時以来でとても久しぶりだったけれど、展示を観る時間があまり残されていなかったので挨拶だけ。地下の展示室には大掛かりな映像を使った作品が2つ。藤幡正樹のインタラクティヴなメディア作品は地面に投影された映像がダイナミックでおもしろそうだったけれど、その場に居合わせている人どうし譲り合いながらじっくり楽しむ時間がなさそうなので、とりあえず奥の展示室へ。ロベルト・ダロルによる大画面の映像作品は、いろいろな素材がザッピングされたようなめまぐるしい映像。ヘッドホンからの音響も相俟って相当の迫力だった。

ひととおり見終わったところで、この日限りの関連プログラムである映像+ダンスパフォーマンス「1,(アインツコンマ)」の会場へ。上階で映像作品も出展していた田中奈緒子と、モルガン・ナルディが企画、演出。ダンス、動きのマテリアルとして菅田浩憲が出演。この3人を中心に、照明や音響オペレーションが絡む。他の作品も展示されている部屋でおこなわれるのではなく、このパフォーマンスのために大きな展示室をまるごと一室使うという、事前に思っていたよりかなり大掛かりなものらしい。開演時刻が迫っているのでもうたくさんの人だかりができている。展示室のど真ん中に大きなスクリーンが吊り下げられ、部屋がそこで2つに区切られているような状態。客席はそのスクリーンに向かうように、壁の一辺に沿ってつくられている。

そして開演。ダンスの菅田浩憲が一定のリズムに合わせてスクリーン手前のステージ部分を機械的に歩く。そして次は這ってステージを一周。その後は次第にいろいろな動きを見せるようになっていくが、終始ストイックで機械的な動作が中心。感情的な要素は排除され、照明、音響、映像などの変化とダンサーの動きがすべて対等で、きちっと計算されたように作られている。振付けのモルガン・ナルディも時々ステージに登場し、壁に映ったダンサーの影の形をなぞってその部分の壁に貼られた紙を切りとったり、また照明器具を手にしてダンサーの動きを追うなどのパフォーマンスをおこなう。田中奈緒子による映像は文字や景色など。上階で展示していた凝ったアニメーション作品とは全然違う。記憶に残ることを周到に避けるような、匿名性の高い映像とでも言うべきか。

スクリーンの手前だけがステージのように思って観ていたら、ダンサーは突如スクリーンの裏の一番奥のほうの小部屋に入っていってしまう。そこからは緑色の光が漏れている。それがなんなのかよくわからない、という点で印象的。そして何事もなかったようにまた次のシーン。演出がきちっとしているだけに、一つ一つの出来事や要素に意味を見出したくなるのだけれど、具体的(と感じられるよう)なことは何も提示されず、舞台は淡々と進行する。機械的(と感じられるよう)な動きばかりと思っていたら、小さなテーブルと椅子が舞台に用意され、ダンサーはそこで珈琲を飲んだりもする。

最後は中央のスクリーンをくるっと廻して裏返して終了。終始つかみどころのない展開だったけれど、ダンス、映像などの各要素がしっかりと演出、統制されていて、揺るぎない一つの向き先のようなものはなんとなく感じられた。帰りにドイツでの初演時の批評記事が掲載されたプリントが配られているのに気づく。それを読んだ上でもまだあまり内容を消化しきれていないのだけれど、わたしとしてはあまり観たことがないようなタイプの舞台公演で、これが無料で観られたのはとても良かったなと思う。美術展のオープニングのパフォーマンスとしては非常に豪華な企画だった。

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